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ここ最近、Twitterのタイムラインを眺めていると、ボードゲームのクラウドファンディングを目にする機会が増えた。特に印象的なのは、日本のインディーズ作品。プレイ時間60分超の比較的重めのゲームが多く、イラストやアートワークに相当の力が入っている。

プロジェクトの成功率は高く活況を呈しており、新たな市場という側面も伺い知れる。コロナの逆風で縮小を余儀なくされた即売会から、クラウドファンディングへ商流が移り変わっているようにも見受けられた。

すでに達成したプロジェクトも含め、印象に残ったプロジェクトを取り上げてみようと思う。

キックスターター
HIZURU / ヒイヅル
ロード・オブ・ボーダーズ / The Lord of Borders
No man's planet / ノーマンズプラネット
HacKClaD(ハッククラッド)
ファクトリア / Factoria

キャンプファイヤー
InRevo
グレート・サマナー

マクアケ
グッドナイトファンタジー
けもサバ

これらについて印象に残る理由は、「面白そう」や「欲しい」でなく、「興味深い」からだ。ゲームデザイナーとして、一連の工程を曲がりなりにも知っていると、人時なり、原価なりが透けて見えてしまい、それ故に「興味深い」と感じてしまうのだ。

今、新しくボードゲームを作るにあたり、クラウドファンディングが有効な手段であることは間違いない。が、それには条件があるのではないだろうか、と思う。

その条件が揺らぐと、手段は無効に、それどころか「諸刃の剣」になりやしないだろうか、と考える。その理由をゲームデザインの観点から考察してみたいと思う。

・アートワークありきでゲームデザインが進むという点。
ゲームをデザインするにあたり、システムから始める派、テーマから始める派、と大きくふたつに分かれる話はよく聞く。いずれにしても、ある程度方向性が定まらないとアートワークに取りかかることはできない。が、クラウドファンディングを始める場合、プロジェクトのトップを飾る美麗なイラストが、まず最初に必要となる。そうなるとアートワークありきでゲームデザインを進めることになるのだが、ここに落とし穴が潜んでいる。

作業が進むと、システムとテーマが微妙に噛み合わなくなる瞬間が訪れる。その場合、テーマを見直すことで比較的楽に修正できるのだが、先にアートワークが決定していると、テーマの見直しが困難になる。本来、一番上のレイヤーにあるはずのアートワークに、一番下のレイヤーにあるべきシステムが振り回されてしまうのだ。

・修正をル-ルが担うことになる。
よいゲームのことを「シンプルだけど奥が深い」と表現するが、それは「時間の密度に比べて、ルールの量が少ない」ことを意味する。どんなゲームでも、ルールは少なければ少ない方が良い。にもかかわらずルールが増えてしまうのは、ゲームのエラーをルールで解消しようとするからだ。

特に中量級以上のゲームを作ろうとすると、小さな穴がゲーム全体を揺るがす大きなエラーとなることも少なくない(必勝法であったり、千日手であったり...)。制作進行も終盤に差し掛かると、そんなエラーとの戦いになるのだが、エラーひとつとつに例外処理を当て、ルールにしていたらきりがない。時にはシステムを抜本的に見直して、エラーの原因を元から絶つ「ちゃぶ台返し」のような荒技も必要になる。しかし、前述の通り上位レイヤーが手綱を握っていると、そんな荒技許されるはずもなく、どうしても後工程が修正を担うことになる。結果として、非常に煩雑なルールライティングを余儀なくされることとなる。

・心理的なプレッシャー。
クラウドファンディングといえば聞こえは良いが、平たく言ってしまえば不特定多数からの代金の前受けであり、借金である。存在しないモノをカタに借金して、モノ作りに躍起になることが、果たしてクリエイターにとって良いことなのだろうか。人にもよるのだろうけれど、出資額が増せば増すほど、心理的なプレッシャーも大きくなると想像する。

そんなプレッシャーがクリエイターの判断を狂わせやしないか、という懸念。一時停止すべき場所でアクセルを踏み、事故を起こす。仮に事故を起こしたとして、クリエイターひとりが怪我を負うのと、出資者も巻き込んで怪我を負うのとでは、事故の意味合いも違ってくる。

以上3点がゲームデザイナーから見たクラウドファンディングの有効性には条件があると思う理由である。システムとテーマ、ゲームとルール、判断基準と責任の範囲。目に見える部分と目に見えない部分の橋渡しが、よりシビアになるように感じる。

これまでが上流――クリエイターが出資を募って製品化するまで。ここからは下流――出資者が製品を受け取った後について。ここにも「諸刃の剣」は潜んでいるように思う。

身も蓋もない話だが、インディーズの中にはゲームと呼ぶにはあまりにも稚拙な作品も少なくない。だがそれはインディーズという理由で見逃されてきた。作る側と遊ぶ側の暗黙の了解があった。ゲームマーケットだから成立した。そこにはビッグサイト由来の同人活動に通底する、ある種の「おまじない」が効いていた。

が、果たしてクラウドファンディングに「おまじない」は通用するだろうか。私はそう思わない。むしろ積極的に「おまじない」を捨てるために、クラウドファンディングを活用しているように見える。

であるならば、稚拙さは悪である。読めないルール、破綻するシステムは悪である。

期待に応じるというのは、そういうことではないだろうか。クラウドファンディングは、出資する側の立場が弱い。大雑把な概要と数点のイラストだけで、実物を見たわけでも、まして実際に遊んだわけでもない。ショップ巡りのジャケ買いとは訳が違う。プロジェクトに共感し成功させたい、という「思い」だけで出資しているのだから。

この「思い」が、何よりも厄介だと感ずる。

つまり、出資者の「思い」が裏切られた時の話だ。そこに「おまじない」は効いていない。昇華しなかった「思い」は、やがて「呪い」に変貌を遂げるのではないだろうか。

日本のインディーズは「値段ばかり高く、見かけ倒しで中身の薄い、一顧だに値しない作品ばかりである」と。そんな空気が醸成されたとき、それが風評被害であると、誰が言い返せるだろうか。

以上が下流で起こりうると想像する「諸刃の剣」である。正しい評価がひとつもないにも関わらず、過剰に持ち上げられている点が問題で、それが後々いびつな形で噴出するのではないだろうか、という懸念である。

なので、クラウドファンディングに出資した方は、ちゃんとそのゲームで遊んで評価すべきだと思う。期待通りでも、期待外れでも、その作品に対する「思い」を誰かに伝えるべきだ。そうすれば、出資する側の心構えも変るだろうし、出資を募る側も迂闊なことはできなくなる。

そうして正しい評価が下された先に、ようやく「日本のインディーズの中にも光るモノがあるじゃん」という世界に通じる道が開けるのではないだろうか。