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先日、クリエイティブAHCの手掛ける「斯くして我は独裁者に成れり 幕末 - On Stage -」という舞台を観た。場所はTUNNELTOKYOというイベントスペース。維新志士や浪士、朝廷の貴族に扮する役者が幕末の日本を駆け抜ける。

大雑把に言ってしまえば正体隠匿系ゲームの舞台化。役者はゲームをプレイしながら、即興で物語を紡いでゆく。プレイヤーとして勝利を目指す一方でキャラクターとして役を演じる。異なる思考を当意即妙にこなすわけだから、その技量は並大抵のものではない。

基本的に即興なので同じ筋書き、同じ結末を見ることはない。連続して2回見たが、どちらも予想外の結末を迎えた。上演中に観客が勝利者を当てるミニゲームも催され、全体を通じてリッチなエンタメ体験だった。

このような舞台を観るのは、実は初めてではない。他にも「人狼」「Vote Show」「ギャングスターパラダイス」など、創作ボードゲームを出自とする舞台はいくつか観劇したことがある。

そんな演劇体験を振り返り、ふと「ボドゲの舞台化はひとに何を伝えるか?」という疑問が生まれた。いち観客として「あー、面白かった!」から一歩進んで、「ボドゲの舞台化」という表現が、我々に何を伝えるのか、について考えてみたいと思う。


その1 ファンの移動
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あるコンテンツを中心に人心が集まると村とか界隈、業界などと呼ばれる。そのコンテンツに結び付く人心を〇〇クラスタ、あるいは〇〇勢と呼ぶ。

これまで、ボドゲ村の民と小劇場村の民の交流はなかった。意識することはあれど、相手の領地に踏み込むような真似はしなかった。が、ここに来てちょっとした事件が起こる。それが「ボドゲの舞台化」である。この事件によりボドゲ村と小劇場村の領地が繋がったのだ。かくして民族の移動が発生した。ボドゲ村の民は小劇場へと足を運ぶ機会を得、小劇場の民はボードゲームに触れる機会を得た。

実際に動くファンはごく少数かもしれない。しかし、単純に前例がないという観点から、価値あるアクションだと思う。「ボドゲの舞台化」は、ひとに新たな「機会」をもたらすのかもしれない。

(余談だが、正体隠匿系にせよ、インプロにせよ、その界隈の極北に位置する者同士が手を取り合ったというのも面白い。ボドゲのユーロ勢から見たら正体隠匿系勢は異端だし、台本芝居勢から見たらインプロ勢はやっぱり異端だと思う)

その2 フォロワーのプレイヤー化
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今日において、フォロワーの数やいいね!の数は、ステータスの象徴とされている。フォロワーの数を増やすこと、いいね!の数を増やすことは、多くの人にとって価値のある行いとされている。

故に、ひとは大きく二種類に分類される。「フォローする側(フォロワー)」と「フォローされる側(フォロイー)」である。両者の関係は互いの他者承認のうえに成立し、その中で完結している。

「ボドゲの舞台化」が、この関係を変化させる契機になるのではないだろうか、と考える。フォロワーのプレイヤー化である。ここで言うプレイヤーとは何もボードゲームに限った話ではない。可能性に挑戦することを、ここではプレイヤーと呼ぶ。例えば、舞台を観て「同じようなシチュエーションでプレイしてみたい」「即興芝居に興味が湧いた」「イラストを描いてみたい」「TRPGのネタになるかも」など、「あー、面白かった!」「即興すごかった!」「可愛かった/カッコよかった!」以外の感想を抱かせる。そんな変化を観客に期待できやしないだろうか。

ゲームとはそもそも対等な関係によってのみ成立する。前提に差があるようでは、それは八百長か、接待に過ぎない。同じ土俵に立てばフォロワーもフォロイーも関係ない。勝利というひとつの方向を見つめるプレイヤー同士という訳だ。プレイヤーが勝利を掴むために必要なものは、他プレイヤーからのフォローでも、いいね!でもない。今のレベルに満足できるか否か、即ち自己承認だ。

フォロワーをプレイヤーにし、フォロイーと対等になることで、両者の閉ざされた関係は終わりを迎えるかもしれない。だが、少なくとも他人に承認欲求をコントロールされるよりは健全な関係だと思う。

そして、その界隈が過疎らず、永続的に発展し、豊かになるためにはフォロワーとフォロイーという閉ざされた関係から一歩進んで、その界隈の住人が次々とプレイヤーとなり、自らのレベルを高めてゆく(自己承認してゆく)必要があるのではないだろうか?

もちろん、フォロワーとフォロイーによる閉ざされた関係が悪いわけではない。が、ここに来てその構造の脆さが露呈したように思う。

コロナウィルスの蔓延防止に伴う、各種イベントの中止がその一例に挙げられる。フォロワーとフォロイーの閉ざされた承認欲求経済は、その硬直的な構造故に外的要因に弱い。「サムシング尊さ」の供給が滞ってしまうと、たちまち経済が回らなくなる。

一方、住民がプレイヤーである界隈は、互いに立場が同じ故に「これがダメならあれで行こう」と中心から離れた場所であっても、変化に柔軟に対応できる。ゲムマ大阪中止決定後の、Twitterにおける創作ボドゲ勢の反応が好例として挙げられるだろう。

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ボドゲの舞台化が我々に伝えるのは、界隈と界隈が交わる時に起こる構造の変化と、それに伴う「機会の提供」、「可能性への挑戦」なのかもしれない。