第8話 愛をなくした男と愛を知らない女
昼、三番街のドラッグストアのイートインに立ち寄る。しなびたレタスと透けるほど薄いハムのサンドイッチと、ただ苦いだけのコーヒーを胃袋に収める。そこはガラス張りで、外の様子がよく見渡せた。三番街は低所得者が多く住まう地域で、判で押したような集合住宅が軒を連ねている。
ライフンヌとユミツカヤについて考えていた。一三人の幹部のうち、ふたりの消息を辿るのは難しいだろう。メリーアンドリューは、そう踏んでいた。
ひとりは裸の帝王として闇の世界に金の雨を降らせる男。もうひとりは、かつてロシアのスパイだった女。ふたりとも闇に生きる人種。消息を絶つことくらい朝飯前だった。
ふたりに共通項があるとすれば、それは血で汚れた足跡だ。メリーアンドリューが、ふたりの現場につき合った時は、必ず死体運びの仕事が待っていた。ふたりが通り過ぎた道には、赤い靴跡が残るのだった。
「嫌な仕事だったんだぜ……」
メリーアンドリューはジャケットからオペラグラスを取り出した。
「ビンゴ!」
レンズの向こうに見えたのは、無防備な姿で道を歩くライフンヌとユミツカヤだった。紙袋を抱え、ドラッグストアの向かいに位置するマーケットから出てきた所だった。メリーアンドリューはドラッグストアを飛び出した。
ライフンヌはジーンズにスニーカー、どこぞのフットボールクラブのジャージを羽織っている。ユミツカヤは、カウチンセーターにロングスカート、ムートンブーツといった姿だった。追跡しながら、メリーアンドリューは拍子抜けしていた。黒光りする革のパンツに、素肌のまま毛皮のコートを羽織った男も、アラミドのタクティカルスーツに身を包んだ女も、そこには存在しない。
「やれやれ……」
まるで緊張感のない追跡は、とある陽当りの悪い集合住宅の前で終了する。マーケットから一ブロック。ふたりは、その集合住宅の一室を生活の拠点としていた。煙草を一本消費する間に、三階の窓に明りが灯った。メリーアンドリューは煙草を捨て、靴でもみ消し、その部屋へと階段を上っていった。
「はい、どなた……」
「やぁ、どうも」
ドアを開け、目に飛び込んだ男の姿にユミツカヤは絶句した。
「……一体何の用なの」
伏し目がちに尋ねる。あわよくば扉を閉めようとノブを握る手は力んでいる。
「街で偶然君の姿を見て。それで懐かしくて、つい」
メリーアンドリューは扉の内側に踏み込む。たじろぐユミツカヤ。
「嘘ね」
「まあ、嘘だね」
「私たちをどうするつもりなの?」
まるで狼に追い詰められた羊のようだった。ひとはこれ程までに変わるものなのだろうか。
「安心しろ。俺は運び屋だ。昔の君のように、命のやり取りをしに来たわけではない」
そう言ってメリーアンドリューは懐から手紙を取り出した。
「手紙?」
「ボスからだ。君とライフンヌに」
「お茶を入れて来るわね。少し待ってて」
「ああ」
事情を説明するとユミツカヤは部屋へ通してくれた。声色にはまだ疑念が残っている。
キッチンに部屋がふたつ。ごく一般的な間取り。通された部屋はリビングのようで、テーブルを中心にテレビや棚などが据えられている。向かいの部屋にはライフンヌが居た。引き戸を開け放ったまま、こちらに背を向けている。テレビゲームをしていた。
「よう、毛皮のコートは着ないのか? 昔のようにさ」
出し抜けに尋ねてみた。
「……寒いだろ、外」
ライフンヌは振り返りもせず、気のない返事をした。
「まあ、な」メリーアンドリューは思わずポケットの煙草に手を伸ばした。「ところで灰皿あるかい?」
「ここは禁煙だ。吸うなら外へ出てくれ」
煙草も止めたらしい。テーブルには求人誌。いくつかのページに折目が付けられていた。開いて見ると、警備員の求人に丸が付けられていた。メリーアンドリューは肩を落とし、求人誌を元の場所に戻した。
もはやメリーアンドリューの知る男ではなかった。ボスの死がそうさせたのか。これが彼の望みだったのか。いずれにせよ、ここに裸の帝王ライフンヌは不在だった。
「ロシアンティーよ。ジャムを入れて飲むものなの」
ティーポットからカップへ、少し赤みがかった紅茶が注がれる。
「こいつは美味そうだ」
メリーアンドリューはコケモモのジャムを一匙、紅茶に溶かした。
「ねぇ、ライフンヌ。あなたもこっちに来て」
「……ああ」
ゲームを中断して、ライフンヌもテーブルに着く。湯気が小さな卓から立ち上る。ふたりの関係について、メリーアンドリューは何も尋ねなかった。
「手紙の件だが、ボスは我々幹部の中から次のボスが現われることを期待している。そのチャンスは俺にも、アミカポネやジャンゴにも、そして君らにもある訳だ。で、その条件だが……」
紅茶を一口飲んだライフンヌが、ふと言葉を漏らした。
「ユミツカヤ。この紅茶ぬるいな」
「そ、そうかしら」
話の腰を折られ、メリーアンドリューは口を噤まざるを得ない。
「そうだよ。こんなぬるい紅茶を出すなんて、どうかしてるよ」
ライフンヌがテーブルを叩く。ガチャン、と音がして沈黙。
「ごめんなさい。すぐに淹れ直すわね」
席を立つユミツカヤ。苛立たしげにその背中を見つめるライフンヌ。メリーアンドリューはため息を吐いた。
「それで、何の話だっけ」
ここには来るべきではなかったのかも知れない。手紙も渡さずに処分すべきだった。ふたりは今、ふたりなりの幸せの形を探していた。少なくともそれが、ボスの座でないことは明らかだった。
「いや、いいんだ。ふたりとも元気そうで良かったよ。気が向いたら手紙を読んでくれ」
メリーアンドリューは席を立ち、ポケットから名刺入れを取り出した。
「それと、うちの名刺を渡しておくよ。何かあったら連絡してくれ。力になれるかもしれない。ロシアンティー、ごちそうさま。美味しかったよ」
ライフンヌ、そしてユミツカヤに笑顔を送り、メリーアンドリューはその部屋を後にした。
足音が遠退くのに耳を澄まし、やがて頃合いを見て窓際へ。ユミツカヤはブラインドの隙間から、外の様子を覗う。ライフンヌはすっかり冷めた紅茶を啜り、尋ねる。
「……行ったか」
「ええ、行ったわ。もう、ここもダメね」
ライフンヌはポケットからナイフを取り出し、手紙の封を切る。文面を読み下す。何度も、何度も。そうしているうちに、ライフンヌの胸の内から熱いものが込み上げてくる。やがて、はたはたと紙面に落ちる雫。ライフンヌは涙を流していた。
「ボス……」
ユミツカヤは、ライフンヌの背中をそっと抱きしめる。
「大丈夫よ。あなたには私がついているわ」
ユミツカヤが耳元で囁く。
「だけど俺はボスを……」
「あなたは悪くない。あなたは何も悪くないわ」
その部屋には男と女がいた。冬の日が落ちる窓辺に、ふたり寄り添いながら。涙を流す男と、その男を抱きしめる女。愛をなくした男と、愛を知らない女だった。
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