ギャンパラ小説表紙

第7話 ケープ・ロッソ

 街の北西には、陸から海へと伸びる岬がある。ケープ・ロッソと呼ばれる地で、青い海と白い砂浜、緑の林に彩られた場所だった。金持ちの別荘が点在し、夏なら人で賑わうも、オフシーズンの冬はどこか寂しさが漂っている。
 午前七時。冬の海は荒れていた。カモメが一羽、曇天の空を行き過ぎる。波は雄々しく浜へと押し寄せ、その跡を消し去るかのように引いてゆく。
 浜辺をひとり走る者があった。ウィンドブレーカーに身を包み、単調な足取りで、ただひたすらに。一陣の風が吹き抜ける。ウィンドブレーカーのフードが捲れた。ブロンドの髪が風に遊ぶ。
 岬の先端に建つ灯台にタッチし、踵を返す。浜辺からケープ・ロッソの町へと通じる階段を駆け上る。あと、もう少し。町の中心にある錨のモニュメントにタッチ。と同時に腕時計のタイマーを止める。
「……タイムは……まずまずだな」
 弾んだ息を整えるように、ペースを落としながら走る。向かった先は町の一角にある小さな家。靴を脱ぎ、ウィンドブレーカーを壁に掛ける。冷蔵庫を開け、よく冷えたペリエの封を切る。喉を潤した所で身に付けていたもの全てを脱ぎ捨て、洗濯機へ放り込む。シャワールームへと向かい、蛇口をひねる。熱い湯が全身を打つ。胸に手を当て、心臓の鼓動を確かめる。
「大丈夫。俺は……大丈夫だ」
 心拍を感じながら、大丈夫と自らに言い聞かせる。秘密のまじない。誰にも知られてはならない。
 心拍が落ち着いた所で、シャワールームを出る。全身をタオルで拭い、乾燥機からアンダーウェアを取り出す。ソファに放ってあったスェットを身に付け、サイドキャビネットを開ける。ベレッタ92。マガジンには弾が込められていた。
 地下室は射撃訓練場に改装されている。位置に着き、手元のボタンを操作すると、ターゲットが現われる。ヘッドセットを装着し、セーフティを解除。スライドを引き、チャンバーに弾を送り込む。視線はリアサイトからフロントサイトを経て、ターゲットへと至る。トリガーを引く。リコイル。排莢。トリガーを引く。リコイル。排莢。トリガーを引く。リコイル。排莢……。

 勤務スケジュールは三勤一休。休みの日でも、トレーニングは欠かせない。弾を半ケース消費した所で地下室から上がった。食事を終えたら、次は空手の稽古だ。ボウル一杯のグラノーラに牛乳を注ぐ。テレビを着け、ボウルを持ってソファに胡座をかく。一口目を食べようとした所で携帯が鳴った。
「なんだ」
「エコッティさん。お休みの所、すみません。検問所に妙な男が来ましてね。ミクミーナさんにお会いしたいそうなんですが……」
 町の入り口には部外者を締め出すための検問所が設けられていた。そこに詰めている警備員からの連絡だった。
「判った。すぐ行く」
 エコッティはボウルを流しに放り、スーツに着替えた。銃をホルスターに納め、青いハットを被り、家を飛び出した。
 
 検問所ゲート前に一台の車が停まっている。窓から男が顔を出す。
「やあ、エコッティ」
「何の用だ」
 よれよれのスーツに無精髭、ちぢれた髪をオールバックに撫で付けた男。運び屋メリーアンドリューだった。
「仕事だよ。お前さんとミクミーナに届け物だ」
「俺はミクミーナの護衛だ。代りに預かろう」
「おいおい、つれないなぁ。昔のよしみじゃないか」
 エコッティはジャケットの下襟を捲り、脇のホルスターをちらりと見せた。
「待て待て、早まるな。これはボスからの手紙だ。かつてお前が命を賭けて守ったお方からの手紙なんだぞ」
 メリーアンドリューは懐から手紙を取り出し、掲げた。手紙にはドン・カイシンのスタンプが押されている。
「……判った。俺が彼女の元へ案内しよう」
 警備員にゲートを開けるよう指示し、エコッティは助手席に乗り込んだ。

 ケープ・ロッソを一望できる高台に、その邸宅はあった。ドン・カイシンが夏のバカンスを過ごすために建てた別荘。ボスの死後、その所有権は彼の愛人に移譲されていた。
「あら、メリーアンドリューじゃない」
「や、お元気そうで何より」
 赤いドレスに身を包んだ女性が出迎える。亜麻色の豊かな髪。近づくと仄かに香水の匂い。炎のように情熱的な瞳。豊かな胸元には、小粒のダイヤがきらりと輝いていた。
 花の一輪でも持ってくるべきだったかな、などと、柄にもない後悔を覚えるメリーアンドリュー。出迎えたのはボスが愛した女、ミクミーナそのひとだった。
「丁度、お茶の支度をしていたところなのよ。さぁ、お入りになって。エコッティも一緒にどうかしら」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
 ずけずけと上がり込むメリーアンドリュー。エコッティはミクミーナと視線を合わせた後、静かに敷居を跨いだ。

「ハラペーニョ!」
 三者がリビングのソファで寛いでいると、不意にミクミーナの胸元に飛び込む影があった。緑色の小さな……。
「それは一体何だ!」
 子犬のような子猫のような、はたまた子猿のような緑色の小動物。メリーアンドリューが尋ねるも、ミクミーナは怪訝な面持ちで応じる。
「この子はハラペーニョよ?」
「ハラペーニョとは……」
「ハラペーニョはハラペーニョよ」
 本人がそう言う以上、納得するしかない。ミクミーナの腕の中でじゃれる小動物は、どうやらハラペーニョという生き物らしい。だが、そのハラペーニョとは一体何なのか。メリーアンドリューが要領を得ずにいると、エコッティが咳払いした。
「それで、お前は仕事で来たんだよな」
「ああ。スマン、そうだったな」
 メリーアンドリューはこれまでの出来事を話した。そして暗にカードの色を確認するよう、ふたりに伝えた。
「確かに幹部の間でも、組織に対する考えの違いはあった。しかし、まさかその中に裏切り者がいるとは」
 エコッティは手紙を確認した後、それをジャケットの内ポケットに仕舞った。一方のミクミーナは手紙を開封しようとしなかった。
「私は見ないわ」
「なぜ?」
「だって私は――今となってはただの女ですもの」
 メリーアンドリューは鼻で笑った。
「随分としおらしいじゃないか。今となってはただの女、か。まるで深窓の麗人気取りだな」
「何が言いたいのかしら」
「いや何、大した事じゃない。女狐とね、君がそう呼ばれていた頃を思い出しただけさ。そういや、ボスを殺ったのも君じゃないか……なんてゴシップもあった」
「私はただ、あの人を愛していただけよ」
「だが、君はこの豪邸を手に入れた。ボスの死と引き替えに」
「ひどい。あんまりだわ」
 ミクミーナの瞳から一滴の涙が零れた。
「お前、殺されたいらしいな」
 エコッティは出し抜けに銃を抜き、立ち上がる。
「俺を殺したら裏切り者が喜ぶだけだぜ。それとも何か。お前が裏切り者か?」
 エコッティの瞳には何も映らない。
「知るか、そんなこと。それよか、こいつ殺っていいか?」
 だめよ――。
「なぁ、殺っていいか?」
 だめ――。
「殺っていい?」
 お願い、止めて――。背中から抱きしめる腕があった。頬に濡れた感触が伝う。エコッティを止めたのはミクミーナだった。
「……判った。止めておく」
 エコッティの瞳に生気が戻る。機械的に銃をホルスターに納め、ソファに着く。
「ねぇ、メリーアンドリュー。これ以上、私たち何を話せば良いというの?」
「そ、そうだな。もう帰るよ」
 弱々しくも毅然とした態度でミクミーナは言い放つ。メリーアンドリューはほとんど逃げるように、邸宅を後にした。
 
「ミクミーナ、さっきはゴメン……」
「いいのよ。あなたは間違っていないわ」
 キッチンで洗い物をするミクミーナ。エコッティはソファに座り、手持ち無沙汰に封筒をくるくる回している。
「俺……青だった。保守派なんだ」
 洗い物を終えたミクミーナがエコッティの隣に座る。
「そう」
「ねぇ、ミクミーナ……君は」
 何色なの――。喉元まで出掛かった言葉は、ついに発せられなかった。
「守ってくれる? 私が何色でも」
 抱きしめられていた。どんな温もりよりも暖かかった。だから信じようと思った。
「守るよ。君が何色でも」
「ありがとう。好きよ」
 柔らかな時が流れる。そんなふたりの様子をハラペーニョがいつまでも見ていた。
「ハラペーニョ~」