ギャンパラ小説表紙

第4話 逆さま眼鏡おじさん

 男の拳が唸りを上げる。
 まともに受ければ、戦闘不能は免れない。それはつまり死を意味した。避けるしかなかった。だが、ジャンゴはそうしなかった。全身の力を抜き、両手をだらりと下げる。
 ジャンゴは拳の軌道を見切っていた。さながら風に揺れる柳の枝のように、身体を反らして拳を躱す。
 間合いに空隙が生じた。ジャンゴは身体を滑り込ませ、体側めがけて刃を振う。手応えを感じた。
 男は空振りの拍子で地面に倒れ込む。起き上がろうとするも、まるで手足に力が入らない。その時初めて、男は自らのダメージに気づいた。
「いくら筋肉のバケモノになろうとも、身体の構造を変化させることはできない。運動系を司る急所を突かせてもらった」
「うがぁああああ」
 それでも男は立ち上がった。傷口からは、ねばねばとした血が流れ出ている。
「ほう。再起動したか。しかし、この調子では脳へのダメージも深刻だな」
 ジャンゴは男を見上げた。
「ぐろぉおおおあああ」
 男は愚直にも同じストレートパンチを繰り出す。
「遅い」
 ジャンゴの放った刃は空を切り、男の額へと突き刺さる。
「アビィオオォォォアアアア」
 男は絶叫し、体中の穴という穴から、血と粘液をまき散らし、崩れ落ちた。
 
「う、うう。ここはどこだ……」
 自らが垂れ流した粘液の中で、男は目を覚ました。身体はすっかり萎んでいる。焦点の定まらない目で、あたりを見回すも、まるで記憶にない様子だった。
「今までの出来事、何も覚えていないのか」
「ああ……。俺は一体何をしていたんだ」
 男はよろよろと起き上がる。膝や腰は曲がり、皮膚も皺だらけで、たった数分間で何十歳も年老いてしまったようだった。
「重度の記憶障害。身体能力の著しい低下。こんな代物では話にならない。粗悪品を掴まされたな『ジンロウ』売り」
「何だか悪い夢でも見ていたみたいだ……」
 ジャンゴは試したのだった。『ジンロウ』のその効果を。結果は歴然だった。不幸な『ジンロウ』売りの男は、足を引き摺るようにして廃墟の奥へと消えていった。

 広場に足を踏み入れる者があった。
「大したもんだ。切り裂きジャンゴは今も健在だな」
 背中からの声にジャンゴは振り向いた。
「貴様か。何の用だ」
 メリーアンドリューは懐から手紙を取り、掲げた。
「ボスからだ。お前とカムコ・カムラッツィに」
「悪いが興味ない。帰ってくれ」
「いいんですか。アニキ」
 カムコが二人の間に割って入る。それでもジャンゴは首を横に振るばかりだった。
「昔に逆戻りだな。この五番街で猿山のボスにでもなるつもりか」
 ジャンゴは、かつてゴロツキだった頃、ドン・カイシンに拾われた男だった。組織で働くようになり、ギャングとしての頭角を現わしていった。やがて切り裂きジャンゴという異名を持つようになり、敵対する勢力を震え上がらせる程の存在となった。地頭の良さから金融関係の仕事もこなすようになった矢先、ボスの死が訪れる。ジャンゴはその時を境に組織に見切りをつけたかのように姿を消したのだった。
「過去にしがみつく性分ではないんでね。それに、ここの暮しも悪くない」
「ボスと共に頂点に登り詰め、この街の全てを手に入れた男のセリフとは思えんね」
「この街の全てだと? それこそ猿山じゃないか」
 メリーアンドリューは肩を竦めた。
「まぁ、いいだろう。カムコ・カムラッツィ、お前はどうなんだ。ボスの次に、この街を手に入れる千載一遇のチャンスがここにある」
 カムコはやや大仰に腕を組んで、胸を反らせた。
「興味ないね。帰りな」
 カムコ・カムラッツィ。イタリアはナポリ生まれで、向こう見ずな性格の持ち主だった。鉄砲玉として組織に与すも、持ち前の悪運の強さで死地へ赴く度に生還した。ジャンゴとは真反対の性格だが、不思議と馬が合った。ボスの死の後、流れ着いた五番街でジャンゴと再開し、行動を共にするようになった。
「やれやれ。お前たちの言い分はよく判ったよ。だが、これだけは言わせてくれ、ジャンゴ」
「何だ」
「逆さま眼鏡おじさんは元気かい?」
 氷のように冷たかったジャンゴの瞳に、炎が灯った。次の瞬間、ジャンゴはダガーナイフをメリーアンドリュー目掛けて投げつけた。

 ジャンゴの投げたナイフは、メリーアンドリューの背後の壁に突き刺さった。彼が掲げた手紙を釘付けにするように。
「貴様、なぜその名を知っている」
「俺の諜報能力をなめてもらっちゃ困るな。お前が『逆さま眼鏡おじさん』として、恵まれない子供達にせっせと寄付していることくらい、とうの昔にお見通しだぜ」
 逆さま眼鏡おじさん。それは昔流行したカートゥーンアニメのキャラクターの名前だった。ジャンゴはこの名前を借りて、孤児院の子供達にプレゼントを贈っていた。
「今回だけは見逃してやる。だが、次にその言葉を口にしたら今度は命をもらう」
 天涯孤独のジャンゴにとって、孤児院は唯一の故郷だった。彼にしてみれば孤児院で育つ子供たちは、兄弟のようなものだった。
「オーケイ。手紙は受け取ってもらえたようだな。それでは失礼する。達者でな」
 メリーアンドリューは踵を返し、その場を後にした。カムコは、壁に刺さったナイフを抜き、手紙を回収する。
「ジャンゴさん……。逆さま眼鏡おじさんだったんスね」
「黙れ。貴様も俺に殺されたいのか」
「ヒェ。すみません……」
 カムコから手紙を受け取ったジャンゴは、それを乱暴にポケットへと突っ込んだ。